感動と憂鬱

 オリンピックがやっと終わった。愛国心が無いわけでも、スポーツが嫌いなわけでもないのだが、オリンピックにほとんどと言っていい程興味が無い。たまたま閉会式は少し生中継を観たが、その他は一度もテレビで観ることなく終わった。それでもネットニュースであったり、テレビのニュース番組を見ていれば少しは情報が入ってくる。私的にはそのくらいの情報量で充分事足りるのだ。
 オリンピック開催期間中、何が苦痛かと言えば、人と会っている時にオリンピックの話題が出たりするのがしんどい。やれ昨日の柔道は感動したとか、水泳が凄かったとか、共感を求められても観てないし、全く興味が無い私にそんな事言われても反応に困ってしまう。しまいには観た方がいい、くらいの事まで言われる。大きなお世話である。
 だからオリンピック開催期間中は出来るだけ人と会わないようにしていたのだが、SNSなどにオリンピックに関する投稿が流れてくるのを目にしてしまう。現地に行って観ているのならまだしも、テレビの中継画面を写真に撮ってアップする気持ちが分からない。そもそも、皆は何に感動しているのだろうか。なぜ感動出来るのだろうか。
 だいたいオリンピックを観ている、という人たちは、柔道や水泳、体操、レスリングと節操が無い。それらのスポーツは普段から興味を持って観ている種目なのだろうか。そのスポーツをとにかく追いかけているんです、レスリングは欠かさず観てるんです、卓球の魅力はああでこうで、などと熱く語れるほどそのスポーツにハマっているなら分かる。
 あるいは、僕は学生時代から柔道やってたんですとか、子供が水泳でオリンピックに出るのが夢だとか、母校の後輩だとか親戚の子が出てるんですとか、そういう個人的に共感出来るポイントがあるならまだ分かる。そうじゃない人がなぜ他人のやっている、たいして思い入れのないスポーツに感動出来るのかが甚だ不思議である。
 自分がもしオリンピックに興味が持てるとしたら、アスリートの最高峰の技術なりプレイを観て凄いと感じる事があるかも知れない、くらいのところだ。しかしその場合はそのスポーツのルールなり、世界レベルをある程度理解していないとその凄さすら分からない。そう考えると私が理解出来る、感動出来るスポーツはオリンピックでは今のところ皆無と言ってもいい。
 おそらく寝る間も惜しんでオリンピックを観ている人は、そこまで深く考えて観てはいないのだろう。もっと気楽に楽しんでいるのだろう。あるいはそれよりも勝ち負けに意識の中心があるのだろう。例えば吉田沙保里選手が4連覇するのかどうか、というところに関心があるのだろう。私はそこにまったく興味関心が持てない。彼女が勝とうが負けようが私には関係が無いことだ。もちろん私は日本人であるから「日本頑張れ」と思わなくもないが、優先順位的にはかなり低い。
 それよりもレスリングのルールをしっかり理解していて、各選手のストロングスタイルも把握していて、さらにバックストーリーまで分かっていて、その上で吉田選手の試合を観たい。しかし、残念ながらそこまでの知識もないし、別段知りたいとも思わない。だからレスリングを観ようとも思わないし、吉田選手が負けたと聞いても「残念だったなぁ」くらいにしか思えないのだ。
 しかし、どうやら世の中ではこの感覚はマイノリティーらしい。だからあまり大きな声では言わない。早くオリンピックが終わってほとぼりが冷めればいいと思ってじっと耐えている。この感覚はワールドカップでも同様に味わう事となる。それはオリンピックの比ではない。ワールドカップ観てないと言おうものなら非国民扱いだ。「今夜は早く帰らなくていいんですか?」って知らんがな。
 何はともあれ取り敢えずオリンピックは終わった。しかし次のオリンピックは東京でやると言うではないか。盛り上がりはリオの比ではないだろう。国民一丸となって大盛り上がりになり、テレビやネットはオリンピック一色になるのだろう。そして都心は大渋滞になるのだろう。そしてまた別段興味を示さない私は非国民扱いされるのだろう。2020年が今から憂鬱で仕方がない。